カースト アメリカに渦巻く不満の根源

 

日本語版では、原書の本文は全訳したが、分量をいくらかでも抑えて少しでも多くの方に手に取っていただくため、原注と参考文献については著者と版元の承諾を得て割愛した。
(訳者あとがき p.447)

 「差別による苦しみの歴史がダリットよりも長いのは、ユダヤ人くらいかもしれない」と、ダリットのジャーナリスト、V.T.ラジシェルカは書いた。「しかしながら、ダリットが耐えてきた苦しみの性質を考えれば、匹敵するものとして思いつくのはアフリカ系アメリカ人の奴隷化、アパルトヘイト、強制同化だけである」
 どちらの国でも、カースト制度を正式に規定した法律は、米国では1960年代の一連の公民権法によって、またインドではもっと前の1940年代に、廃止されている。しかしどちらのカースト制度も、人の心や慣習、制度や社会基盤のなかで生き続けている。両国ともいまだにその規範の名残と共存しており、その規範が普及していた期間はそれがなくなった期間よりもはるかに長い。
(第7章 デリーの濃霧のなかからインドとアメリカの類似点を見つける pp.84-85)

 ヒトラーが権力の座に着いた頃には、米国は「単に人種差別のある国ではなかった」とイェール大学の法制史学者、ウィットマンは書いた。「米国こそが人種差別主義国家の筆頭だった――ナチスドイツさえもが、アメリカを手本として頼りにしていたほどだった」。アメリカ人の多くは気づかなかったかもしれないが、ナチスドイツのほうは類似に気づいていたのである。
(第8章 ナチ党とカーストの促進 p.92)

新たに到着した移民はみな、自分の選んだ新しい地のヒエラルキーのどこにどう自分を位置づけるかを考えて決めなければならなかった。世界中、特にヨーロッパで虐げられていた人びとがエリス島を通過し、強力な支配的多数への加入の許可を得るために、それまでの自分と、多くの場合はそれまでの名前までも捨てた。
 その過程のどこかで、ヨーロッパ人たちはそれまでになったことがない、またなる必要もなかったものになった。チェコ人、ハンガリー人、ポーランド人だったのが、白人になったのである。それは白以外と対比させて初めて意味を持つ政治的な指定だった。(中略)
 「アメリカに来る前は誰も白人ではなかった」とかつてジェームズ・ボールドウィンは言った。
(第4章 ロングラン上演とアメリカのカーストの出現 p.52)

 境界線上にいる人が認められるためにどの道を選んでも、カースト制度は上級カーストを純潔に保つために都合よく形を変えた。そこにある幻想をつなぎ止めていたのは、どんなに細く、擦り切れた糸だったことか。日本人の小説家があるとき、少なくとも紙の上では、日系のオハラ(Ohara)氏とアイルランド系のオハラ(O'Hara)氏が市民権を取得できるかできないかを分けるのはたった一つのアポストロフィだと指摘した。これらの事例はカースト制度の人為的なレッテルとそれが伝える純潔や汚染の認識が不条理であるだけでなく、不正確であることもあらわにした。同時に、カースト制度の強固さを、成立根拠と反対の証拠を突きつけられても折れず、論理によって攻撃されてもめげない性質をさらけ出した。
(第4の柱 純潔 vs. 汚染 p.142)

 「アフリカ人は黒人ではありません」と彼女は言った。「アフリカ人はイボ人、ヨルバ人、エウェ人、アカン人、ンデベレ人です。黒人ではない。自分自身であるだけ。大地にいる人間です。それがアフリカ人の自分についての見方で、それがアフリカ人のあり方です」
 わたしたちがアメリカ文化において絶対的真実として受け止めるものは、アフリカ人にとっては異様なのだと劇作家は言った。
 「アフリカ人はアメリカに行ったりイギリスに来たりするまでは黒人ではない」と彼女は言った。「そのとき初めて黒人になるのです」
(第4章 ロングラン上演とアメリカのカーストの出現 p.56)

エボラ出血熱は距離と地理によってしばらく抑えられていたが、ウイルスにとっては人種も肌の色も出身国も関係がなかった。人間は人間であり、恐ろしく効率のいいウイルスにとっては新しいホストとなりうるものにすぎない。(中略)結局わたしたちが皆一つの種であり、互いに絡み合っていて異なる点よりも似ている点が多く、自分たちが考えたい以上に互いに依存していることを思い出させるのである。エボラは、その後来るものについてのひっそりとした警告にすぎなかった。
(第12章 この世の罪を一身に負うスケープゴート p.225)