最終講義 ―生き延びるための六講

最終講義?生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)

最終講義?生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)


目の前にこれまで見たことも聞いたこともない「現実」が出現した。そういうときにそれを既知に還元して、「ああ、これはいつもの『あれ』だよ」と「想定内」に繰り込んで安心しないで、これは一体何だろう、どういう「未知のパターン」を描いているのか、どういう法則性に従って生起していることなのか、それを考える。そして、そういうときに難しい問題であればあるほど、オープンハーテッドな気分で、控えめな敬意とあふれるほどの好奇心を以て、それに向かってゆく。
(p.83)

 六歳の子どもに、自分の身体実感にぴったりの言葉だけを用いて語れと命じたら、「だるい」とか「うざい」とか「きもい」とかいうような言葉をいくつか並べるだけに決まってます。それらの言葉はまさしく彼らの身体実感をありありと表しているでしょう。そのまま放っておけば、そういう十数個の形容詞をTPOによって、イントネーションや表情の変化だけで何通りにも使い分ける...というタイプの言語表現には熟達するかもしれません。でも、それでは学びというものが成立しない。幼児のときの自分が設定した狭苦しい「自我の檻」から一生出られない。
(p.219)


最終講義―生き延びるための六講:書籍案内|技術評論社


目次


I 最終講義

神戸女学院大学 二〇一一年一月二二日

神戸女学院大学の教育の成果として/生き馬の目を抜くせわしさから秘密の花園の穏やかさへ/これから行われるであろう「よきこと」を信じて/ヴォーリズの建物は生き物だった/知的イノベーションにおいて死活的に重要なこと/市場原理主義者たちには理解できないこと/自らの手でドアノブを回した者に贈り物は届けられる/「存在しないもの」からのシグナルを聴き取る/「書数」のみで「礼楽御射」が欠けている今の学校教育/文学研究は「存在しないもの」とかかわるもっとも有効な方法/「愛神愛隣」の言葉が教えるもの


II 日本の人文科学に明日はあるか(あるといいけど)

京都大学大学院文学研究科講演 二〇一一年一月一九日

私が仏文学会を辞めた理由/アカデミシャンは何を背負ってフロントラインに立つか/日本の人文学者の原型的スタンス/知的な興奮を覚えるのはすべて理系の学者だった/「わけのわからない現象」に夢中になれるか/危機的局面であるほど上機嫌であれ/先端研究には日常生活の基盤を揺り動かす力が/レヴィナス合気道が繋がった瞬間/アカデミック・ハイの感覚/最後の拠り所となるのは「知性の身体性」/知性の存在理由は知性そのもののうちに/敬意と好奇心を以て知性に遇せよ/知的イノベーションを担う場が抱える矛盾/座持ちのよさも知的能力のひとつである/先駆的直感に導かれて/仏文学者がオピニオンリーダーでありえた理由/「情理を尽くして語る」という学問的マナー/道を拓くのは君たちのためである/あなたの哲学的未来に幸多からん


III 日本はこれからどうなるのか?―「右肩下がり社会」の明日

神戸女学院教育文化振興めぐみ会 講演会 二〇一〇年六月九日

北方領土についてファナティックになるその理由/アメリカは北方領土問題に首を突っ込めない/北方領土と沖縄基地のトレードオフアメリカ,霞ヶ関,マスメディアの三位一体/漠然としたものだった鳩山元首相の「腹案」/「核の抑止力」という心理ゲーム/断片しか報道しない日本のメディア/誰がなってもなんとかなる成熟した政治システム/断片から全体像を描く知的能力の必要性/生き方のシフトは若い女性から/母親と父親の育児戦略は何が違うか/拮抗しているべき両親の育児戦略/時代は「貧乏シフト」しつつある/日本より高かったドイツの自殺率/自殺率は平和な時代に上昇する/「医療立国日本」は有望なプラン/性善説に基づくサービスも大きな付加価値/めざすべきなのは「教育立国」


IV ミッションスクールのミッション

大谷大学開学記念式典記念講演 二〇一〇年一〇月一三日

倍音は宗教儀礼の核心部分/太宰治倍音的な文体の作家である/村上春樹が掘り当てた物語的鉱脈/人間が人間であるために読まねばならぬ物語/選ばれないことのリスクを引き受ける/教育の本質はおせっかいである/利便性や効能では学びは発動しない/教える側と学ぶ側の相互交流/教えたい人間が引き受けるべきリスク/旗印をかかげて頑張り続けるのが学校/教育機関にも生物学的多様性を/ミッションスクールは旗印を鮮明にせよ


V 教育に等価交換はいらない

守口市職員組合講演会 二〇〇八年一月二六日

教育問題の「犯人探し」はもう止めよう/商品としての「教育サービス」/市場原理が導きだした「学位工場」/教育が「ビジネス用語」で語られる日本/教育の効果は数値化できない/教育現場を覆う消費者マインド/お金に換算できない意味や有用性を「学ぶ」/意味や有用性はあとになってから実感するもの/教育計画に一覧性を要求すべきではない/素晴らしい校舎には「学びの比喩」が込められている/学びには「謎」や「暗がり」が必要だ/「矛盾に耐えて生きる」ことで成熟する/親族の基本構造にあるもの/とにかく「異論を立てる」ことが大事


VI 日本人はなぜユダヤ人に関心をもつのか

日本ユダヤ学会講演会 二〇一〇年五月二九日

日本ユダヤ学会への恩返しとして/なぜ私はユダヤ研究を志したのか?/「日猶同祖論」はなぜ激烈に批判されるのか?/ユダヤ人のふりをして『日本人とユダヤ人』を書いた日本人/ユダヤ人は日本人に(たぶん)何の関心もない/ユダヤ人が備えている桁外れに高い知性/「親ユダヤ」と「反ユダヤ」は背中合わせ/「日猶同祖論」の起源/四人の「日猶同祖論」者たち/明治期の日本人がユダヤ人に投影した「霊的長子権」/日本の知識人の琴線に触れた「日猶同祖論」/日本の若者の反米感情がピークに達した七五年/実は「反米」だったのか?/果たされなかった攘夷の戦い/アメリカを睥睨する知的ポジションに立ちたい/日本ユダヤ学会の「優しさ」の理由/目標がはるか上にあるがゆえの穏やかさ